どこにあるの?どんなまち?自慢できることは?つるがは元祖国際都市
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敦賀港は、全国の港湾都市の規模と比較すると、決して大きな港ではありません。しかし、敦賀港のロケーションや歴史から見れば、日本一ポテンシャルを持った港と言えます。
現在、鞠山南地区では、物流機能の高度化に対応し多目的国際ターミナルの整備が進められており、7万トン級の船舶が着岸可能となり、日本海有数の物流基地が誕生することになります。
□敦賀港の概要
岸壁名 W,D(m) トン
金ヶ崎A岸壁 209,-9.5 1 10,000GT
金ヶ崎C岸壁 170,-10 1 10,000GT
桜E.F岸壁 190,-5.5 2 2,000GT
蓬莱G.H.I岸壁 405,-7.5 3 6,000GT
川崎松栄A岸壁 235,-7.5 1 10,000GT
鞠山北A岸壁 130,-8.0 1 5,000DWT
鞠山北B岸壁 240,-12 1 30,000DWT
鞠山北C岸壁 260,-12 1 30,000DWT
鞠山北D岸壁 240,-9 1 20,000GT
重量物者置場 160,-5.0 1 1,500DWT
原電明神桟橋 87,-6.0 1 3,000GT
企業専用埠頭 250,-10 1 15,000DWT

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 敦賀港は、今日まで国際貿易港として栄えてきました。
 その陰には、明治から昭和の初期にかけて敦賀港の開発振興に尽力され、近代港湾の基礎を築いた「大和田荘七」この人の偉大なる功績を忘れることはできません。
 大和田荘七翁は、1857年(安政4年)に、「薬種商・山本九郎左衛門(道庵)」の息子として生まれました。
幼少時から賢く、それが初代大和田荘七の目にとまり、1878年(明治11年)21歳のときに養子となりました。そして、1887年(明治20年)30歳のときに、二代目「大和田荘七」を襲名しました。
 大和田翁は、外国との貿易を進めていかなくては他の港に後れを取ることをいち早く察知し、開港運動を精力的に進めていきました。国際貿易港として進めていくため、明治25年大和田銀行を設立しました。これによって敦賀港を利用する商人にとって心強い金融の後立てが出来たのです。
 明治27年初代の商工調査委員に選出された大和田翁は上京し、福井県選出の代議員に「敦賀港開港に関する請願書」を提出しました。委員全てが開港に向けて奮闘し、その結果 、明治32年外国貿易港として指定を受けたのです。
 しかし、指定は受けたものの北陸線の延伸により今まで海上輸送に頼っていたものが、鉄道に移ったために当時の敦賀港での輸送も停滞し、このままでは外国貿易港の指定維持も危ぶまれるほどの状態でした。
そこで、大和田翁は朝鮮牛の輸入や「敦賀外国貿易汽船会社」を設立し、自らが社長となって大豆等の輸入を行うなど、精力的に行動を起こしていきます。
 明治35年、敦賀−ウラジオ間を結ぶ欧亜定期航路が開設され、一気に敦賀港は欧亜を結ぶ窓口として重要な位 置を占めることになりました。
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